平成23年6月25日「歴史講座~江戸時代の米沢を歩く“城下町西部の巻”」

歴史講座 

第2回目は、フィールドワークⅠです。児童会館を出発し、現在の城西方面の江戸時代の町を歩きました。題して“城下町西部の巻”

*児童会館前で、今いる場所の確認・・・児童会館から伝国の杜まで、江戸時代はお寺が21軒並んでおり、児童会館と隣の伝承館は法音寺だったが、明治時代になって現在の御廟に移った、ことを学びました。

*上杉神社の赤い橋・・・“赤い橋”と通称呼んでいるが、本当の名前は『菱門橋』。普通は侍も誰も通れなかった橋。

なぜか:赤い橋の北側の春日神社の丘に、大事な税金の書類等をしまっておくお蔵があったため、誰も通ってはいけない橋だった。

“菱”は秘密の門というところから命名されたそうです。

*上杉神社西側お堀の道路・・・江戸時代にはこの道は無く、役所や蔵が並んでいたところ。織物の原料になる青苧(あおそ)の蔵・味噌の蔵・ロウの蔵など。

*大乗寺宅の北側の道路・・・容易に入り込めないようにジグザグになっていた。真ん中のところには北側の門の番人が住んでいたと思われる。斜めに国道121号線まで続く道路は、江戸時代には無かった。

*三菱自動車前から・・・ここから西の方、キムラまで見ると、キムラ辺りから道路が曲がっているのがわかる。江戸時代はキムラから東の方への道路は無く、キムラから北の方に右に曲がっていた。

こうして説明を聞くと、車社会になって道路がどんどん変わってきたんだなあと感じました。

*丸十餅店の西側・・・丸十餅店の西側道路ともう一つ西側の道路との間隔が狭い。この間は、江戸時代はお堀だった。丸十餅店まで二の丸。丸十餅店の西側の町名は土手ノ内町といった。

土手ノ内町を南に歩いていくとお堀である証拠に、道路の高低差がはっきりとわかった。もう少し歩いていくと、400年間、同じ場所に住んでいる家がある。栗林家である。

*掘立川・・・人工の農業用水路であり、源流は最上川。この川が西側から攻めてくる敵から守るお堀の役目。この掘立川の東側に袋町がある。江戸時代では途中で行き止まり。敵が入ってきたときに敵を困らせる役目の道路。

*掘立川のすぐ西の社・・・甘粕信綱の屋敷跡。甘粕はキリシタンで、当時の人口(小国まで含んでいた)13万人、そのうちキリスト教信者は3万人。景勝は家康に対し、キリスト教信者は、ゼロと報告していた。しかし、景勝の次の代になり取り締まりが厳しくなり、信綱も改宗を拒み、斬首された。この社から処刑場の北山原まで引き回しされたらしい。

*無足町(現・堀川町)を南に歩く・・・“足”は給料のこと。給料がごくごく安い身分の低い侍の町。(参考:加地町・・・もともとは徒町。馬に乗れない侍の町) 天気の良い日は正面に「兜山」が見える。

*田町橋を通って天理教置賜分教会の前・・・お堀が切れたところであり、敵から守るところとしては大事なところ。そこを武田信玄の6男武田信清に守りを任せた。この屋敷は大きく、天理教の向かい側から愛とパンまであった。

*最後に、上杉鷹山公の隠居所「餐霞館(さんかかん)」跡地を見ました。こんなところに隠居所があったのか、初めて見ました、という参加者もおりました。

※実際に江戸時代の道を歩いてみて、いろいろなものが時代とともにどんどん変わっていくんだなと感じました。現代は、車社会となり車が通りやすいように広くまっすぐな道路が造られています。江戸時代は、敵が容易に入り込めないようにジグザグな道・お堀を何重にも造ったりと、本丸まで一直線に行けないような町づくりが行われました。上杉神社の周囲を歩くと、ちょっと低い道路があり、あっ、ここはお堀のところだったんだとわかります。

講師の佐藤先生のお話を聞きながら歩いてみると、普段当たり前に通っている道路なのですが、本当に江戸時代にタイムスリップし、上杉時代の道を歩いている気持ちになりました。

*7月は、7月16日(土)10:00~12:00.フィールドワークⅡとして城下町南部の巻です。

あああ